転載8(ロシアの同性愛史)


■ロシアと同性愛
オーランドの襲撃事件が起きた前日の6月11日、ロシア中部エカテリンブルグでは、フーリガン化したロシア人サポーター約20名がゲイのナイトクラブを襲撃する事件が起きた。脳震とうや脚を骨折した負傷者もでており、客の証言によるとサポーターがエアガンを発砲したそうだ。また、オーランドの襲撃事件を受け、ロシア政権寄りの活動家が「アフガニスタン系の正しき青年が、ゲイが集うクラブで約50人を射殺したが、負傷者53人が死ななかったのは残念だ。(銃乱射を)心から支持する」と交流サイトで述べる。野党勢力から非難を浴び、即座に大統領報道官が火消しに回った。

ロシアというと何かと冷たくて暗い印象を持ってしまうのだが、性的少数者に関してもたびたび冷ややかなニュースが目に映る。特にソチ五輪で話題になった、ある法律の存在は看過できない。今回はロシアにおける同性愛者の状況を綴ろうと思う。
 
7/2(2016/07/02)

男あるところに男色あり。古今東西、人が集まる所に男色は存在するといわれている。もちろん、ロシアもチャイコフスキーがそうであったように例外ではない。
だが、調べてみるとロシアの同性愛者に対する風当たりは中東以上に強く感じる。一応、ハッテン場としての機能をもつ施設もないわけではないのだが、反同性愛主義者らがLGBTコミュニティへ積極的に介入し、同性愛者を拿捕して狼藉を働く事件が起きている。それはゲイ活動家による社会活動へのアンチテーゼのみならず、ゲイバーやゲイイベントへの襲撃や、一般の同性愛者に対する暴行といった悲惨な事件がたびたびニュースに上がる。


特に注目を浴びるのは、2013年に作られた同性愛プロパガンダ禁止法(以下、同性愛宣伝禁止法)。西欧諸国のVIPたちがソチ五輪開会式を挙って欠席した騒動の端緒となるこの法律は、同性愛行為そのものを禁じてはいないのだが、法の背景にあるロシア国内の現状を鑑みると、同性愛者にとって危険な法案である。まずは同性愛宣伝禁止法が制定されるまでの近代ロシアを概要する。

ペレストロイカ以前の同性愛に関する史実を記した文献はあまり残されていないようだが、19世紀頃まで同性間の性的接触は相当程度許されていたらしい。ただし、それは同性愛というアイデンティティに由来するのではなく、アルコール摂取を交えたうえでの”男性文化の一環”として歓迎されていた。酒の勢いにまかせた、その場の雰囲気やノリで軽く触れ合う程度のライトなセックスを野郎同士で楽しんでいたようだ。

7/6(2016/07/06)
帝政期以前、同性愛や異性装は宗教上もしくは民兵からの処罰を受けることはあっても、法制度上のペナルティはなかったそうだ。16世紀後半、モスクワ大公国の雷帝イワン4世もその気があったそうで、自分を蹴落とそうとする何者かに自己のセクシャリティについて告発を受けたことがあったらしい。18世紀前半、ピョートル大帝は軍隊での男性同士の同性愛を禁止する。19世紀前半、ニコライ皇帝は同性愛に関するあらゆる行為を禁止する995条を制定するが、裁判所が’同性愛行為一般ではなく、肛門性交のみを罰する’と限定解釈を施す。995条が適用されると権利を剥奪され、シベリア方面に4~5年間の流罪に処されるが、どれほどのロシア人が同法規で罰せられたかはわかっていない。だが、オープンリーな同性/両性愛者の芸術家や知識人は19世紀晩期まで比較的多く存在し、都市化によりモスクワやサンクトペテルブルグでは同性愛者専用の売春宿が軒を連ね、公の場で男の売り買いが多々行われていたそうだ。
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7/8(2016/07/08)
1922年、ソビエト連邦が成立。初代指導者レーニンの下、初期のソビエト刑法には同性愛を処罰する法規は存在せず、同性愛は一旦合法化される。しかし、スターリン政権で事態は急変。同性愛は反体制的でロシアのナショナリズムにそぐわないものとされ、それに関する表現物は続々と国の検閲にかけられ、同性愛は病気であると公式に発表される。1933年、男性同性愛者を重労働に服させる処罰法規121条を制定。これによりソビエト政権時に毎年800~1000人の男たちが投獄されたといわれる。続くフルシチョフ政権でも反同性愛法が存続した。彼は、もし121条を廃止しれば、刑務所の環境下で発生した男性間のセックスが一般社会に拡散してしまうと考えていたようだ。1970年代までは、同性愛を理由とする投獄や同性愛の権利にかかる書籍の検閲が緩まることはなかった。この闇の時代がロシア人の同性愛嫌悪感を助長させた要因の1つかもしれない。

7/9(2016/07/09)
1984年、ロシアのゲイたちが自分達の権利を推進するための組織作りを試みるが、KGB(ソ連の秘密警察)の手によって速やかに解散させられる。こういった同性愛者達の活動は、ゴルバチョフ時代の情報公開政策、グラスノスチの下で公に同性愛を議論する機会が得られるまで許されなかった。1989年に行われた世論調査では、ロシア社会で最も嫌われているグループは同性愛者であるとの報告がなされ、回答者の30%が同性愛者は粛清されるべきと答える。
ソ連解体後の1993年、エリツィン大統領の下で同性愛は再び合法化される。1999年、精神障害のリストから正式に同性愛が外された。同性愛は犯罪や病気ではなくなり、日本と同様に禁止・治療の対象とはされず、晴れて自由の身になる。2005年、活動家のニコライ氏がロシアとベラルーシにおけるLGBTの権利推進活動を目的とした多国籍組織Gayrussia.ruを立ち上げる。

7/9(2016/07/09)
2006年、国内初の地域間LGBT団体Russian LGBT networkが設立される。モスクワ初のゲイパレードが企画される。パレードに向けてクラブパーティが開催され、約1000人が会場に集まったが、極右グループとロシア正教会のメンバーが押し寄せ、ホモ、変質者などと罵り、機動隊が出動する騒ぎとなる。当局はパレード開催を許可しなかったが、当日200人が集まりパレード開催に踏み切ろうとする。ここでも極右グループらと衝突して複数の流血事件が勃発、パレード参加者は警察官に逮捕される。翌年も開催が試みられたが、モスクワ市長が再度禁止。その後もアクティビストや市民達が横断幕を持っては対抗グループから体当たりされたり、警察に連行される。(ユーチューブで『Moscow Gay Pride』と検索すると動画がある、次々と護送車送りに)
公権力がここまで表現の自由(デモの自由)に対して過度に干渉する理由は、ロシアなりの事情にある。
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7/12(2016/07/12)
2009年、同性愛プロパガンダ禁止法が提出されるが、一度、下院で否決された。2010年、ロシア政府がプライド・パレードの開催を拒否したことについて、ニコライ氏が欧州人権裁判所(EUの機関)に提訴、ロシア政府に罰金刑が下る。しかし、2012年、欧州人権裁判所の判断に反して、モスクワが公共の福祉を守る名目でプライドパレードを行わせないためのルール作りを行った。サンプトペテルブルクではLGBTを公に表現することを禁ずる条例が制定。モスクワとサンクトペテルブルクで、デモ主催者への暴行事件や殺害予告事件が起き、デモ参加者58人が拘束される事態が発生する。2013年、同性愛宣伝禁止法が議会で可決され、プーチンがこれに署名する。同時期に、宗教家の宗教感情を害した者に対する禁固刑及び罰金を科す法案と、同性間カップルがロシア国籍の児童を養子にとることを禁ずる法律が成立。世界各地で抗議活動が展開される。

7/15(2016/07/15)
2012年にロシア公演を行い、同性愛者の権利を擁護したマドンナとレディー・ガガは、同性愛宣伝禁止法可決の翌年に保守派市民から激しい批判を受け、当局から入管法違反で訴追されそうになる(同法成立の立役者であるサンクトペテルブルク市長ミノロフ氏が、この件に一枚噛んでいるらしい)。両者の入国拒否の動きも見られ、ガガがツイッターで憤慨。ガガの公演を請け負った興行業者がアルコールの摂取と同性愛の宣伝行為を理由に罰金刑をくらう。ゲイをカミングアウトしているエルトン・ジョンも、ロシア国内でコンサートを開催しようとするが、ロシア父兄会が公演中止を大統領に呼びかける騒ぎが起こる。セレーナ・ゴメスはロシアへの入国ビザの発行を当局から却下される。詳細は不明だが、オンライン署名会社を通じてセレーナに同性愛者の権利平等を声に出して欲しいとの要望が送られたことが原因ではないかといわれている。2014年、同法を理由に西欧諸国の首脳らがソチ五輪開会式を欠席。五輪中も各地で抗議活動展開。今に至る。

7/17(2016/07/17)
振り返ってみると、ロシアの為政者達が同性愛を禁じた動機は時代の流れに沿った様々な意図が汲み取れる。ピョートル大帝はロシア正教会を国教として保護する一方で、教会を自らの統制下に置くが、これは皇帝として自らの権威を高めるためであり、軍隊で同性愛を禁じることで統率を狙ったのも専制君主ツァーリズムを完成させる一環にあった。ロマノフ家最後の皇帝であるニコライ2世は、のちに正教会から聖人に認定されるほどの敬虔な信者であったが、彼の背後にいた怪僧ことラスプーチンと伴に帝国主義を推し進め、正教会の教えに従い、同性愛を排除しようとした。対して、ソヴィエト政権は無神論を奉じ、ロシア正教会を弾圧をしていたが、ソ連の最高指導者に就いたスターリンは宗教的動機に基づかず、国内のナショナリズムを高めて共産体制を維持するために、反体制に加担すると思われる同性愛を忌避した。ソ連解体後はソビエト時代に培われた保守的な家族観と、反西側諸国に傾倒する国家観、近年はロシア正教会の復権によるところが大きい。

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