雑記3

5/4(2016/05/04)
周知の通り、日本は男色文化が根付いていた。一説によると、真言宗の開祖である空海が中国から持ってきたといわれている。中国の寺院は閉鎖的な女人禁制のコミュニティからか、奔放な性に走る坊さんが増殖したそうで、動物を相手に性交したり、はたまた木のウロに突っ込んで満足する猛者もいたそうな。荒ぶる性秩序の中で僧同士の男色に着手する者たちが出現。困ったお偉いさんが四分律というルールで風紀を正そうとするが、一度味わった快楽に歯止めはかけられず、男色は文化?として定着する。唐に渡った空海も男色に耽り、日本へ輸入し、密教の間で広まる。大和時代では古事記にでてくるヤマトタケルの女装(異性装)の話を聞いたことがあるけど、男色はこれが起源と言われている。
しかし、よく調べてみると奈良時代の貴族文化では既に男色が存在していたらしく、万葉集の歌人の一、大伴家持は美少年好きで和歌も残しているらしい…。古文でこの種の歌はわりとあるとか。。

5/4(2016/05/04)
僧が稚児を相手に極楽浄土や清浄と称して流行したホモセックスは平安期の貴族文化に流れてくる。当時、唐の文化は最先端でイケてる羨望の対象とされ、日本からみれば唐発信の男色文化は上流階級の嗜みである側面もあったそうで、しまいには女とヤルより美少年とのセックスの方が高尚な行為と扱われる始末に。今では同性愛行為が自然の摂理に反するといわれるときもあるのに、やんごとなき雅な御方たちが平成の世では想像を絶するほど、かなりエゲツない性生活を送っていた。親族間でセックスをしたり、男同士での3P、妾を複数携えて複数などざらにあったようで、セックスは下劣で品のない行為というより、蹴鞠で遊ぶかの如く、娯楽として興じる/愉しむというスタンスが伺える。男色は教科書に出てくる超有名人にも多く、ほとんどの貴族がバイセクシャル傾向という記述もある。とくに藤原頼道はお盛んだったそうで、紫式部はややレズビアン傾向だったらしい(´Д`)アァ

鎌倉時代で武士が台頭すると武家社会でも男色が広がる。女とのまぐあいは汚らわしいという思想が強まり、高位の武将は数多の小姓を抱えた。ここらへんは皆さんご存じの通り、秀吉を除く著名な武将たちはことごとくその気があり、前田利家は織田様との雄交尾を酒の席で自慢し、それを聞いた部下たちは羨ましがったという。(武将は立場上、必ずタチ役を請け負う)これに歓喜するか、落胆するかは人それぞれだろうけど、戦いの舞台は雄の世界、性愛の対象が男性に傾くのは海外の軍隊でも見られる傾向で、厳格な男社会ほど主従を重んじる意味合いで男色を嗜んだ模様である。(ヤクザが兄弟の杯を交わす感じだろうか?)親しい男とホモセックスに興じて信頼関係を高め合う。今では考えられない非常識が当時の常識だった…。

そんななか、男色文化と敵対関係にある宣教師らが海外からやってくる。ザビエルやヴァリニャーノは、さも動物以下の野蛮な行為と吐き捨てる。今ではこっちの考え方が主流だけどね。

サムライ・スピリッツの一端にある衆道…江戸時代でも男色はブームとなり、徳川家将軍15人のうち少なくとも7人はその気があったらしく、江戸の町には新たな男色コンテンツが隆盛を極めることとなる。陰間だ。
芸能史においても鎌倉時代から猿楽の役者が色を売ることがあったようで、室町時代に能を大成した世阿弥も足利義満から寵愛を受けていたらしい。(能にも男色要素を含む演目がある)
戦国の世では出雲阿国が歌舞伎を創始、阿国は女性で女歌舞伎という梨園が存在していたが、江戸幕府が風紀を乱す!と戒め、これに対し、「女がダメなら美少年でいいじゃないか!」とどこかで聞いたことのある発想で、前髪をつけた少年たちによる若衆歌舞伎に移行するが、これも(美しすぎて)社会秩序を乱しかねないと指摘され、少年の前髪を剃り、帽子を被らせ女形をやらせた。いわゆる野郎歌舞伎。今の梨園が男の世界なのは、野郎歌舞伎の系譜を引いているから。野郎歌舞伎の舞台に立てない若い少年たちは女形を演じられるようにという名目も含め、舞台に立つ前の修行の一環として身体を売り始める。舞台の裏、陰の間、陰間茶屋。
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5/4(2016/05/04)
陰間の役者は今でいうアイドルさながらで、民衆達は彼らに熱烈なラブコールを送っていたそうな。褒め言葉は色々なパターンがあり、「しにまする!」は「死んでしまうほど美しい!」、「ころすか、ぶっころすか!」は「その色香で俺のことを殺す気か!それほど美しい!」、「親はないか!」は「こんな美しい子を産んだ親はみてみたいほど美しい!」

・・・。

あとは腐女子の方々に任せるとして会場は熱気で包まれていたそうです。はじめは男性相手だったけど次第に女性客も接待するようになる。元禄文化の著名人である井原西鶴は、浮世草子で男色を絶賛するプロパガンダをしたそうで、彼の代表作「好色一代男」にも男色シーンが描かれた。これに刺激を受けたのか、町人の間でも男色旋風が巻き起こり、陰間へ足を運ぶ女も増えたという。こうして男色カルチャーは江戸の町人にも浸透するが、江戸中後期あたりから次第に衰退し、文明開化の荒波のなかで流入した西欧思想により、男色はタブー視されるようになる。

明治に入り、藩閥政治の一角を担う薩摩藩を中心とした南九州では男色文化がわずかに残ったものの、続々と流入するキリスト教的道徳観から、男色は敵視、異端視、異常視とみなされ、寛容な空気から一転、忌み嫌われる扱いを受ける。明治5年では鶏姦罪が制定され、肛門性交が刑事罰の対象となった。(必ずしもゲイは肛門性交するとは限らないが)ただし、運用上は、ほぼザル法だったようで、これは列強諸国に植民地支配された多くの国・地域における反ソドミー法(特定の性行為を犯罪とする法律)と状況が似ている。適用事例は専ら刑務所内で規律秩序を乱した囚人や女装者が多く、前コメで紹介したような学生寮や軍隊の間では細々と男色行為が繰り広げていたようである。旧刑法の施行とともに鶏姦罪は廃止。旧刑法に同罪が盛り込まれなかったのは、どうやら日本の民法典に影響を及ぼしたフランスの法学者ボアソナードが司法省に助言をしてくれたおかげらしい。ありがたや( ̄人 ̄)

5/7(2016/05/07)
男色の歴史を紐解いていくと、江戸以前の『男色』は文化や風習といった後天的要因が大きいのではないか思われる。仏教、貴族、公家、武家、芸能、町人・・男色カルチャーはあらゆる場面で親しまれ、そこではノンケ・バイ・ゲイの区別は曖昧模糊、ノンケであってもノンケ同士やゲイを相手に男色行為を楽しむ者も多かったのではないかということだ。
もともと日本は性に関してオープンで、例えば女性が腕や脚を露出するなど裸に対する抵抗感は少なく、遊郭や風俗業も盛んで、複数の正室や側室、妾がおり、幕府が禁じるまでは不倫も庶民の間では比較的寛容な方だったようだ。戦国の世では夫と死別した女が複数回再婚し、武士の間では位の高い武士を家に迎えたとき、下級武士が一夜の相手に自分の妻を差し出すことが最大のオモテナシとされたこともあったそうだ。銭湯での裸の付き合いや混浴が親しまれ、男色が公然の文化として許容されるほど、ことにセックスに関してオープンな民族であった。

5/7(2016/05/07)
しかし、明治維新後に社会を取り巻く環境は激変する。日本人は男同士で性行為をする、野蛮で非人間的な奴らだ。そんな下劣な文化を俺たちが正そう。そういわんばかりのキリスト教的道徳支配が蔓延り、明治政府もこれを受容、連綿と続いた従来の性文化はいとも簡単に崩される。
男色は異常な性欲・変態・倒錯扱いが当たり前になると、ノンケ?は男色行為から離れ、マイノリティであるゲイ・バイは自ずと自分たちのアングラ世界でひっそりと生き続けることになる。

キリスト教的道徳観の導入から生まれたマジョリティとマイノリティの分断は、現在のゲイ事情にも禍根を残す。男に愛されたい。でも、ノンケは相手にしてくれないので、仲間からチヤホヤされるしかない。自分たちの世界で自分好みの男を目指そう。世間のイケメン像に惑わされることなく、自らが理想と掲げるイケメン像を。
こうして、猛々しいマッチョになるべく、今日もベンチプレスに挑み続ける(屮゚Д゚)屮
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青空ジャンク

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